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Placebo1
インスタレーション・映像

2014年  9月 1日(月) - 9月13日 (土)
14:00-20:00
レセプション: 9月 1日18:00-20:00

会場: Art Lab Akiba

Placebo1

ダンカン・マウントフォード

地場 賢太郎

暗闇の中に見えるもの

 17世紀の科学革命は文字通り我々の世界観を変えてしまった。望遠鏡、顕微鏡の幕開けと共に我々の目は新たに大宇宙と、小宇宙に向かって開かれ、我々の世界それ自体と,宇宙での位置関係を観測する時代へと突入することになった。一方、この時代で醸造された明晰な客観的意識は我々を取り巻く現象から我々を引き離し、我々の立ち位置を宇宙の辺境にある孤島へと追い遣ることになった。そしてこの時代は様々な分野の専門的な知識を持ち、多くの分野で業績を残した著作家でもあり、医学者でもあるトーマス・ブラウンの生まれた時代でもある。彼の科学的な推論と神秘的な思索を組み合わせは創造への新しい視野を提供するレンズを据えてくれた。彼のもたらした極めてラジカルな新しい世界観はあらゆる場所と、あらゆる時間が一つの視点で共存している「永遠の現在」によって検証することが出来る。そしてこのビジョンはW.G. ゼーバルドが「土星の環」において言及していることであり、彼はブラウンの神のごとき目に賛辞を捧げたのである。ゼーバルド自身の独創的な著作自体も時間、地理、出来事、そして記憶の一種の万華鏡であるが、読み進めるにつれ、我々の立ち位置はぐらぐらと揺れてくる。一見ゆったりとしたイギリス西部地方の田園地帯での散策は清の西太后、第二次世界大戦、レンブラントの絵画「テュルプ博士の解剖学講義」、インドネシアの植民地砂糖貿易と奴隷制、にコンラッドの小説「闇の奥」やさらに繭の飼育にまつわる話も加わり予想出来ない展開へと導いていく。個人的、歴史的、様々な事象が新たに紡ぎ出す輝くような物語の織物,それは新たな様相を呈して行くのだが、物語の内部の反射と屈折を経ると我々読者は様々な大陸、何世紀という時間の縦糸の中を、間断なく左右に振られる横糸のシャトルになるのだ。さらにこの著作は我々の視覚は明るさに依存している筈であるが、我々を闇の中へと引き連れて行くのである。まさに土星の環そのものの様に我々の心を周回する氷の破片をたぐり寄せる霞がかった記憶の深みへ踏み込んで行くのである。

 そしてこれこそが今回の地場賢太郎とダンカン・マウントフォードによる二人展の展望の視座であろう。彼等は共に記憶の断片が浮揚する領域で新しい重力場を形成しているのだ。地場は生涯をかけた「ライフスクロール」で知られているが、この作品は日々加算されていく細部への執着とイマジネーションによる幻想に満ちた終わることのない巻物である。画面には彼の過去、現在そして未だ書かれていない未来が出逢うのである。地場のこの方向性は一見異なる最近作のアニメーションにも引き継がれている。この作品では宇宙の中で、時間や空間を異にする隔絶した世界が天体望遠鏡を通した一つの視点から統合されるのである。彼の「永遠の現在」の具現化の試みでは世界の全ての局面が同時に存在し、光学機器を通した神の透視法採用することで権力と命令、フーコ的な視点と、 メランコリックな神性の寂しき孤立について物語っているのだ。そして今回同時に展示されるブラックキャンバスではアニメーションのように宇宙を遥か行くことはないが、方向を逆転させ我々の内なる世界へと視線を向ける。眼球に入ってくる光の刺激は網膜と心に刻み込まれ残像となって、明確な形はやがて失われるが、その持続は過去の一時的なものではあるが、身体的つまり物理的な継続である。
  マウントフォードの何十年にも及ぶ調査、とりわけ「驚異の部屋」を巡る作品においてもこの「併存する状態」を追求したものである。ゼーバルドもブラウン博士自身による特異な「封印された博物館」の記述を通しこの「驚異の部屋」についても言及しているが、「驚異の部屋」は16世紀半ばから18世紀にかけて流行した世界中から集められた珍奇なもののコレクションで、まず人をびっくりさせることを目的としたが、後の近代の博物館の先駆けになった。「驚異の部屋」は植民地化の過程の中で収集された記念物のカオス的な収集であると見なされることが多いが、一方、博物館の方は客観的な方法で対象を取り扱い、正確に分類、整理された知識体系になるよう意図されたものである。しかし「驚異の部屋」も博物館も集める側の権威を文明の象徴として印象付けようとした目論見があったのである。

「土星の環」をトータルな視点から読めば、我々の文明の失敗もしくは、文明の成功によって念入りに仕組まれた破壊が主題であろう。記憶の暗部に踏み込む時、歴史や人間の精神の遥か深部へも入り込んでしまうのである。物語は植民地化,産業革命,近代化,グローバリゼーションという歴史の流れを通して、累々とした死や破壊の跡をたどって行く。「全ての新しい事物において絶滅の影はすでに現れているのだ。人間一人一人、社会秩序、そして世界全体は絶えず拡大したり、益々壮大になっていく円弧ではない。一旦頂点に到達すれば暗闇へと転落してしまうのだ。」そしてマウントフォードのインスタレーションでは文明と権力の頂点に君臨した者の残したもの全てが廃墟の中に取り残されるのである。科学と進歩の象徴物が博物館の裏の貯蔵庫で埃を被りながら見棄てられる様に、また次の時代、別の価値の象徴や建築の象徴が道端に捨て置かれ、朽ちていく動物の死骸の様に退行していく。
 こうした時間、記憶、歴史、軋轢の流れは一見穏やかなイギリスサフォーク州のブライス川と野生的に蛇行するアフリカのコンゴ川が合流するかのように統合されて行く。この二つの川は人間の本質の核の中で、それぞれ飼い慣らされた日常と、不穏で不条理なリアリティを象徴しているのだろう。イメージは 沢山の荷を抱えながら流れている意識の層によって運ばれて来る。その意識の川は光りと闇の風景の中を蛇行しながら流れているのだ。そのうねりの中で二つの際だつ世界が合流している中で、我々は自分捜しの旅を敢行しているのだ。
 そしてここで漸く私たちは生と死、創造と破壊の循環を見つけることができるかも知れない。それはT・S・エリオットの野生の本性を持った逃れることの出来ないどう猛な川を反映しているようである。

T・S・エリオット Dry Salvages 『四つの四重奏』から

わたしは神々のことをよくは知らない。だが、わたしの考えでは
河は強い褐色の神――気難しく、獰猛で、手に負えないが、
ある程度までは忍耐もあり、初めは国境だと思われていた。
人の役には立つが油断のならない商いの仲介人となり、
やがては橋梁建設技術者の手強い相手。
いったん問題が解決されると、この褐色の神は、都市の人々には
おおかた忘れられる――が、どうしてどうして執念深い、
怒りをため時節を待つこの破壊者は、人間が忘れたがるものを
否応なしに思い出させる。機械の崇拝者たちには
崇められも宥められもしないで、河はただ、じっと、見ている。

岩崎宗治氏訳より

キュレター 太田エマ

(翻訳 地場賢太郎)

Placebo1

 

アーティスト: ダンカン マウントフォード & 地場 賢太郎
キュレター: 太田 エマ
コーディネーター: 大和田 登
アートラボアキバ Art Lab Akiba www.art-lab.jp urotankebachi@yahoo.co.jp
〒111-0053 台東区浅草橋4-5-2 片桐ビル1F tel: 090-8031-4711